プロフィール

こうの友佳プロフィール 京都市西京区 女性議員

河野 友佳

こうの ゆか

1986年(昭和61年)6月17日生まれ

京都市西京区在住

[自己紹介]

趣味
茶道(裏千家)、華道(池坊)、カラオケ、野外フェス
尊敬する人物
両親
好きな言葉
「明日やろうは馬鹿野郎」
長所
行動力があるところ
短所
せっかちなところ

[経歴]

平成2年(1990年)4月
さかいだに幼稚園入園
平成5年(1993年)4月
桂坂小学校入学
平成11年(1999年)4月
同志社中学校入学。以来高校・大学と同志社で過ごす。
平成14年(2002年)4月
同志社高等学校入学
平成17年(2005年)4月
同志社大学社会学部メディア学科(旧文学部新聞学専攻)入学
平成21年(2009年)3月
同志社大学卒業

学生時代、京都市議のもとで働き、現場で政治を体験。広報や調査活動並びに市議会議員選挙、市長選挙に携わる。

[職歴]

平成21年(2009年)4月
株式会社MBS企画入社
平成25年(2013年)5月
ザ・リッツ・カールトン大阪((株)阪神ホテルシステムズ)入社
平成30年(2018年)5月
地域政党京都党 西京区支部長就任

幼少期

  • 1986年6月17日 奈良県で生まれる。
  • 幼い時、母が入院して祖父母の所に預けられました。その間、一度も泣かなかったのに、帰ってきた母の姿を見た私は大泣きしたそうです。それ以降、小さい頃は母をママ、父をとうさん、祖母をかあさん、祖父をパパと呼んでいました。
  • 幼稚園に入園する少し前から、桂に住みはじめました。幼稚園に入ると背の順はいつも前から二番目で、ずっと先頭で腰に手を当てる役がやりたかったです。
  • さかいだに幼稚園には水泳のクラスがありましたが、泳ぐのが苦手でとても苦戦しました。一方アイススケートのクラスはとっても好きでした。
  • 幼稚園では芋堀や柿狩りといったイベントがたくさんあって、泥だらけになりながら収穫するのが大好きでした。
  • 幼稚園の中で実施されていた日本舞踊の教室に参加していました。年上のお姉さんたちと浴衣で練習していました。発表会の時お化粧をしてもらって舞台に立つと、少し大人になったような気持ちでした。
  • 当時は家の近くに、まだ空き地がたくさんあって、その石垣を使って友達と飛び降りるのが好きでした。誰が一番高いところから飛べるか度胸試しをしていました。

小学校

  • 桂坂小学校に入ってからは、石畳通りのそばにある公園でよく友達と鬼ごっこをして遊びました。一度は滑り台を下から駆け上ろうと無茶をして、口の中を打って、何針も縫うことになってしまいました。それ以外でも、よく走って転んでは傷を作ってしまう子供でした。今でも膝には当時の傷が残っています。
  • 小学校二年生の時に家族でアメリカのボストンに引っ越しました。友達もおらず、英語ばかりの環境の現地学校に行くのは最初不安でしたが、順応の速さに家族もびっくりしていたそうです。ハロウィンにはアニメのお姫様の仮装をして近所の家を回ってお菓子を沢山集めたのが一番の思い出です。
  • その後、アメリカの中でも一度転校し、帰国後も桂に戻る前に一年間を左京区修学院で過ごしたので、小学生の間に計四回も転校を経験することになりました。転校には、折角できた友達と遠く離れる寂しさと、また新しい友達が出来るわくわくの両方がありました。
  • 五年生の時に桂坂小学校に戻ってきました。毎月1回行事を企画しようというクラスで、それが毎回楽しみで仕方ありませんでした。野外キャンプの時にはみんなで替え歌を作って踊ったり、小学校の校舎全部を使って学校スゴロクをしたり、交代でいろんなイベントをして遊びました。
  • 生徒会で「おはよう隊」を作って、校門で朝「おはよう」の声かけ運動をしました。最初は声を出すのがとっても恥ずかしかったです。友達からはじまり、段々色んな人が返事を返してくれるようになったのが嬉しかったです。
  • 小さい頃は運動がとても嫌いで苦手でした。小学校では、毎日走った距離を積み重ねていく業間マラソンという物がありました。足の遅い私でも走った分だけ努力が実っていく感覚が嬉しくて、朝早くに学校に来て夢中になって走りました。最終的には合計90km走って二位の表彰をされました。結果的にそこから徐々に運動も得意になりました。それは、努力は報われるという原体験だったように思います。
  • 掃除をさぼる男子が許せなくて、得意だった理詰めでまくし立てた結果、河野さんが怖すぎるとクラス会で逆に訴えられてしまった事がありました。それは、少し悔しかったけれど、人間関係は正論だけじゃなく、ちゃんと相手の心を動かさないといけないと反省するきっかけになり、今でも忘れられません。
  • 修学旅行で広島に行きました。千羽鶴を持っていくことになりましたが、日程が迫ると千羽には間に合いそうにない状況。それがどうしても気がかりで、下校時間が過ぎて帰るように言われた後、先生に隠れて校門の外で友達と必死で千羽鶴を折りました。

中学校

  • 中学では管弦楽部に入部。フルートに憧れて入部しましたが、あみだくじで負け、3年間ファゴットという大きな木管楽器を吹きました。クラシックに詳しくない人にも楽しんでほしいと思い、例年クラシックばかりだった物を、三年生になった時にはスターウォーズメドレーを提案して演奏しました。
  • 昼休みには当時まだ今出川キャンパスの中にあった中学校舎の中庭で、毎日夢中になって円陣バレーをしていました。
  • 嵐山の虚空蔵法輪寺で十三参りをしました。慣れない着物で階段を降りようと苦戦していると「裾を少しあげて、斜めに降りるのよ」と教えられました。体の向きを少し傾けてという意味を勘違いして、階段の右から左、左から右へ大きくジグザグと降りていったので家族に大笑いされました。
  • 3年生の体育祭では応援団長になりました。全クラスの中で唯一の女子応援団長。夏休みにも学校で集まって、みんなで応援ダンスを考えたのが楽しかった思い出。本番では声をからしながら踊り、叫びました。

高校

  • 高校ではラクロス部に打ち込みました。当時は関西に三校にしかない、珍しい部活でした。ラクロスのスピード感に魅了されて熱中しました。朝は授業前に体育館の大きな壁に向かって壁打ちをするのが日課でした。
  • ラクロス部の練習がない日を利用して、茶道部にも入っていました。お茶室で練習するのも楽しかったけど、高校の頃は和菓子を食べながら喋っている時間の方がよく覚えています。
  • 学園祭の模擬店ではクラブのみんなで揚げ耳パン屋さんを開きました。桂のパン屋さんを一軒一軒訪ねて、パンの耳を分けてもらいました。
  • 正月には八坂神社で巫女のアルバイトをしました。ずっと正座していたら、見たことないくらい足がむくんで腫れあがりました。
  • 珍しく修学旅行がない同志社高校。高校二年の時、私たちの代には修学旅行を復活させたいという話になり、次の日には友達と用紙を作って署名を集めはじめました。部活の先輩後輩も次第に手伝ってくれて大量の署名が集まりました。残念ながら実現には至りませんでしたが、協力の輪が広がっていく事を実感しました。
  • 学園祭のクラス劇では、悪役がやりたくて立候補。当時話題になっていた昼ドラ「牡丹と薔薇」を参考に、主人公をいびり倒す、とことん意地悪なキャラクターを突き詰めて演じ、助演女優賞をもらいました。
  • 騎馬戦が昔から好きで、体育祭には例年男子しか出場出来ないが残念でした。そこで三年生には体育祭の実行委員に入り、女子騎馬戦を作りました。一番の課題はみんな騎馬の組み方を知らない事。そこで各クラスの応援団に協力をあおぎ三学年に組み方を広めてもらいました。そして、体育の先生方にも頼みこみ、体育の授業の数分を練習時間に頂きました。多くの協力の結果、三学年各九組全て参加し女子騎馬戦を実施することが出来ました。自由・自治・自立の精神のもと、サポートして下さる先生方と協力を惜しまない友人達のおかげで、同志社で学生時代を満喫しました。
  • 小学校建設に伴い、私達の年が同志社北グラウンド、通称「北グラ」を使った体育祭最後の年でした。何か記念になる事をと、当時の生徒会の友人が全校で人文字を作り、「北グラ」とお別れする事を提案しました。とても素敵な提案に体育祭委員も全員で協力し、計画図をしおりに織り込み解説しました。当日も生徒会と一緒に、校舎の上にスタンバイしたスタッフの指示を伝えて、文字を調整するのに走り回りました。学校全体が一つになって、完成した写真は素晴らしい思い出になりました。
  • 現代文の選択科目では、生徒で一冊の本を作りました。私は副編集長でした。原稿を書いたそれぞれと相談して字体にこだわったり、業者さんのサンプルをみながら装丁を決めたり。製本されて出来上がった時には大きな達成感を得ました。

大学

  • 昔からの夢、アナウンサーになりたくて社会学部メディア学科(旧文学部新聞学専攻)に進学。
  • 休日には友人と京都の美味しい店を見つけるのが楽しみでした。同じ趣味を持つ人たちと情報交換する場が欲しいと思い、当時流行し始めていたSNSでは、京都のグルメを紹介しあえるページを作りました。結果、何万もの方に参加していただけるコミュニティーになりました。昔から何事も自分で試してみたい性格です。
  • 大学1回生の頃から東京のテレビ局に行ってアナウンスの授業を受けました。周りは3回生のお姉さんばかりの中で緊張しながらレッスンを受けました。
  • 大学2回生の時に政治の世界を知りたいと思い、友人の紹介でNPO団体が募集していた議員インターンシップに参加しました。当時は無所属で活動していた村山祥栄京都市議のもとで政治を学びました。
  • ポスター貼りやポスティング、議員と一緒に地域のお宅を訪ねるなど政治家の地道な活動を体験しました。声をひろうのも、活動を知ってもらうのも地道な活動から生まれる事を知りました。
  • 村山議員の事務所では、アナウンス学校で学んだ事を生かして、パーティーの司会を任されました。市議会選挙と市長選挙の二度の選挙にスタッフとして参加し、議員と共に街頭に立ち、選挙カーに乗り、マイクを握って選挙区を回り政策を訴えました。

社会人

  • 毎日放送のテレビ、ラジオを制作する仕事につきました。1年目にはテレビ番組「美の京都遺産」を担当。京都の寺社仏閣や祭りを現場で取材しました。京都の伝統文化を継承する方々のお話を直接伺う機会を得ることが出来ました。
  • 2年目からはラジオの担当になりました。深夜の生放送音楽番組のスタッフになった際には、担当する音楽に全く知識がありませんでした。そこで詳しい人におすすめを聞いては、休みや深夜に局に出勤する前の時間を利用して、実際にライブハウスに行って出来る限り多くのバンドを見て回りました。一年で80のライブに足を運んでいました。そこから音楽が大好きになり、今でもライブや野外フェスが大好きです。
  • ラジオではテレビとは違って沢山の番組を掛け持ち、色々なジャンルに携わりました。ある日には、動物園の象の檻の中に入ったり、巨大地下河川を見に地下まで取材したり、時には自分が番組に出演することもあったり、目まぐるしく色々な事を体験することができました。
  • 東日本大震災の後には、宮城県山元町に行きボランティアに参加しました。お金を送ることでしか協力できないことに歯がゆさを感じていましたが、ようやく取れた休みに現地に向かいました。住宅地の側溝の土砂撤去や、重機では拾いきれない細かい瓦礫撤去作業に汗を流しました。発生から一年半後にまだ残る、自然の猛威の跡を目の当たりにしました。
  • 4年目にはテレビの新番組の立ち上げに参加しました。出演者の方々が局に来て、衣装を着て、メイクをして、スタッフ打ち合わせをして、実際に放送し、帰られる。その細かな段取りや手配を担当しました。個性豊かなタレントさんにあわせて、気持ちよく仕事をしていただけるように工夫するのは大変な面もありましたが、貴重な経験でした。
  • ザ・リッツカールトン大阪に転職しました。お客様一人一人と向き合って、唯一無二の関係を築くという、プロのおもてなしの姿勢を学びました。自分の事を覚えてお店に来て下さるお客様が増えていくのが嬉しかったです。
  • それぞれのプロポーズや誕生日など、人生の大切な節目に利用していただくことが多く、サプライズのお手伝いをするなど、たくさんのお客様の思い出を作るお手伝いが出来ました。
  • 和食料理の担当になった際には、もっと和のおもてなしを学びたいと思い、高校の部活以来遠のいていた茶道を再び学び始めました。そして、新たに池坊の生花を学び始めました。まだまだ未熟ではありますが、和の伝統の魅力を感じながら、今もお稽古に通っています。
  • 大阪に勤めている間も京都に住んでいたのですが、地元のニュータウンの高齢化を感じていました。京都が好きでも、京都を離れて他の都市に住む友達が多く、もっと若い人が住む場所に選べる京都にしたいいう思いをずっと持っていました。
  • 政治の世界に飛び込む決意をする前から、日常の中で気になる事があるとそのままには出来ませんでした。看板が倒れているのを見つけたら、担当部署にお願いの電話をしました。歩道の危険な段差が広がっていくのを発見した時には、インターン時代の先輩と共に段差解消に動きました。自分には政治は身近なものでしたが、多くの人、特に若い世代には政治家は遠い存在になってしまっているのではないかと問題を感じました。
  • 毎年増えていく外国の観光客を見て、京都は世界で愛されていると誇りに思っていました。ある時旅先のインドで、マレーシアの女の子に出会いました。彼女は海外旅行が好きで、紅葉の頃に京都にも来たことがあると言いました。私が、ぜひ今度は桜の時期に、と勧めると言いにくそうに黙ってしまいました。聞くと、「京都は人が多すぎて、本当にストレスフルな町だった、もう行きたくない」と言われました。私はこの体験がショックでした。京都市民が観光客に対しストレスを持っているのは分かっていましたが、観光客の方から見ても京都の魅力が損なわれてしまっている。京都の現状に改めて問題を感じました。ホテルで働く中で培ったホスピタリティの精神を生かし、観光客も京都を好きになって帰ってもらい、京都の住人も来てくれてありがとうと思える京都にしたいと思います。
  • 京都のために働きたい、京都を暮らしやすい街にしたい、大好きな京都を世界中の人に愛される都市にしたいという思い。そして、同世代の人たちが実際に議員として働く京都党に触発されて、自分も市会議員を目指す決意をしました。